
新大関正代の誕生で、熊本は大喜びにわいた。大関初土俵で足を負傷し、休場を余儀なくされたのは残念であるが、これからの場所が楽しみである。
日本の国技ともいわれる相撲は、永い歴史はあるが江戸時代の初めごろには、それまでの朝廷の節会(せちえ)相撲が中絶されていた。当時、京都で相撲の勝負を判定する行司で、相撲の宗家といわれた15代吉田司家は、将来を案じ武家奉公を頼っていた。
そのことを知った5代肥後藩主細川綱利公は、熊本への招聘を懇望し、ついに寛文元年(1661年)熊本への招聘を実現する。
吉田司家には、150石で屋敷を与え、やがて誕生していくお抱え力士は、高田原相撲町に居住したといわれている。今も下通りの一角に「相撲町通り」の案内標識が設置されている。
その後、肥後藩のお抱え力士は、江戸相撲の番付で上位を占めるようになり、幕末には、宇土出身で8代横綱不知火諾衛門を、11代横綱に大津出身の不知火光右衛門を輩出している。
相撲は、大関が最上位であったが、抜群の力士には横綱を許し、免許を与える制度を考えたのも吉田司家といわれている。以後、横綱の免許は吉田司家が与えてきたといわれている。この流れは、幕末、明治、大正、昭和とつづき、戦後、日本相撲協会に譲渡され今日、日本相撲協会において取り仕切られている。
吉田司家が細川綱利公に招聘され肥後藩に奉公してから360年、肥後藩が日本相撲に果たした役割の大きさを感じる。
熊本市の花岡山のふもとに細川家の墓所、妙解寺(北岡自然公園)があるが、細川綱利公のお墓の一角には、大小3つの丸い石が遺されている。相撲好きの綱利は、自らもこの力石(ちからいし)を持ち上げ鍛錬を怠らなかったといわれている。
後年の綱利は、御茶屋だった水前寺を今日の姿のように桃山式回遊庭園を造成し、庭園の名称を中国の六朝文化を代表する詩人陶淵明(とうえんめい)の「帰去来辞」(ききょらいじ)から「成趣園」(じょうじゅえん)と命名し、今日まで熊本の文化遺産として遺されている。
熊本県文化協会名誉会長 吉丸 良治