熊本オフタイムの幕開け ~文・小堀富夫~


社会人生活の原点「上通り」

Text by Tomio Kobori/写真協力:小堀家

昭和24年(1947)3月7日、上通5丁目の熊本日日新聞社に入社した。現在ビプレス広場があるところだ。電車通りに面した鉄筋3階建てのビルで、1階は営業局、2階に編集局があり、裏には輪転機などの印刷工場そして新聞発送のための別棟があった。

拡張中の電車通りの反対側に下通をはさんで新世界・大劇の大型映画館があり、何時も満員だった。未舗装のジャリ道の周りには屋台が並び、深夜までにぎわっていた。

終戦からおよそ3年半。ひどかった食糧事情も少しずつ良くなっていた。そして25年6月に始まった朝鮮戦争による特需で景気も急上昇し街にも活気があふれていた。

熊日では販売部勤務、戦時中の一つの販売店が各紙を扱っていた合売制が、一新聞のみを扱う専売店制度に変わりつつあった。

割り当てだった新聞用紙も自由になり、新聞社間の増紙拡張戦争がはじまり事業活動が活発化、さらに平和国家・文化国家という事で、文化スポーツの主催行事が増え、それらの仕事が新人社員の私の仕事となった。

当時の販売部長は後に熊日社長になられた小崎邦彌さん。「何でも勉強」と新入社員の私は色々と仕事をさせてもらった。

当時は編集と営業の垣根はあまりなかった。販売と事業のほか「熊日こども新聞」や「野球王」のローカル頁の取材編集も担当し、人吉での「こども博覧会」の新聞館の責任者にもなった。

おかげさまで文化芸術・教育・スポーツ界などに多くの人脈がこの時に出来上がった。

昭和20年7月の大空襲で被害がなかった当時の上通りは木造2階建ての店が多かった。1階がお店そして2階は家族生活の場。商品も充実しており熊本一の商店街にと、各商店が協力しながら街づくりに励んでいた。当時40代前後の若手商店主との親交も深まった。

27年6月に鶴屋そして10月に大洋の両デパートが開店し、人の流れも大変りした。

27年9月に大阪支社に転勤になった。この3年半の熊日本社時代に築いた人脈がそのあとの私のラジオ・テレビ生活に大きな影響を与えてくれた。さらに現在の文化界とのつながりもその時代に始まる。私の社会人人生の原点は70年前の上通りにある。

ラジオ熊本事はじめ

 昭和27年(1952)10月1日に大阪支社に転勤となった。当時の熊日大阪支社は中之島に架かる肥後橋脇の小さなビルの1階にあり、広告中心の支社だった。

世の中も次第に落ち着き、広告活動も本格化していた。薬品・化粧品・弱電メーカーなどが地方紙にも続々と出稿するようになった。

広告代理店の一角に新聞広告と別世界のラジオ広告を扱う部署があった。当時大阪には新日本放送・朝日放送の2つのラジオ局が開局しており、番組やCMの制作など活発に広告主やタレントと打ち合わせを行っていた。

近くの三越デパートのホールでは落語・漫才・音楽そして聴衆者参加のクイズ番組などが連日公開放送されていた。

家では民放ラジオ局を聞く機会が増え、次第に「ラジオの世界は面白い。自分は新聞よりラジオの方が向くのでは」と思うようになった。

大阪で民放ラジオに接していなければ、今日の私は無い。大阪生活が私の一大転機なった。

昭和26年4月21日に民放ラジオ局16社に予備免許が交付され、早くも同年9月1日に、中部日本(名古屋)と新日本が開局し、年末までには朝日放送、ラジオ九州(福岡)、京都放送、ラジオ東京が開局、民放ラジオ局の歴史が始まった。

熊本でも28年1月4日の熊日役員会でラジオ局をつくる事が決まり、準備が進められた。開局予定は10月1日、しかし6月26日に白川大水害、犠牲者400名・熊本の大半が阿蘇山のヨナで埋まった。

しかし水害3日後の29日には創立総会が開かれ資本金5千万円のRKKラジオ熊本が正式にスタートした。

白川水害の影響で、同日3階ホールに予定していたスタジオ建設は大幅に遅れ、10月1日の正式放送開始の時は池田送信所の仮スタジオから行われた。

この間、出資金の募集・広告主への説明説得・番組制作など初めてラジオ局の運営に携わる本社の新人社員たちの苦労は大変だったと思う。

ラジオに転社の希望を出していた私は、6月末に転社前提で熊日東京支社に転勤の辞令がで、7月はじめに東京支社に赴任し、熊日在籍でラジオ放送の準備にあたり、10月1日の放送開始をむかえ、私の放送人生が始まった。

小堀 富夫

―深 謝―

2018年4月24日、マスコミ、文化、芸術の振興に幅広く貢献され、本誌に寄稿頂きました小堀富夫さんが享年88歳でご逝去されました。心からご冥福をお祈り申し上げます。

今回の寄稿は、ある酒の会にて「次世代に残したい熊本の話」をテーマにエスプレッソへの寄稿連載を頂きたいとお願いしたところ、快く「オッケー」を頂きました。連載では小堀さんの若い頃に経験された面白い話を通じて、熊本の良さ、心の豊かさを読者に向けて紹介していく予定でした。

終戦から三年半が過ぎ、街に活気が戻った社会人一年生の頃から話は始まっています。熊本でもラジオに耳を傾け、文化・芸術・スポーツを楽しむことができる人間らしい時間が少しずつ戻り始めた時代、まさにオフタイムの幕開けだったに違いありません。

小堀さんから3月15日付で手書きの原稿用紙をお送り頂き、今号への掲載準備を進めていたところに訃報を知りました。原稿と一緒に同封されていたお手紙には「ねらい・視点と異なる文ならボツにされて結構です。ねらいと違う文ならボツは当然の事ですし、当り前の事です」と記してあり、小堀さんの奥深い心の広さにあらためて触れた思いでした。その時は、この原稿が遺稿となってしまうとは思ってもいませんでした。今はこの原稿の続きを読むことができず、本当に残念です。

ESPRESSO編集部